どうみてもアイルランド人に見えないアイルランド人

たったいまさっき気づいたのだった。
上海から来た女 [DVD]』は、アイルランド人に全く見えないアイルランド人である主人公マイケル(オーソン・ウェルズ)のモノローグから始まるのだが、モノローグから始まる映画というのは、というか映画のなかのモノローグというのは何なんだ、とふと思ったのだが、それと同時に、一人称の小説における話者と描写の関係だかなんだかを金井美恵子が自作の『噂の娘』について語っているのを読んだ記憶が甦って、『噂の娘』では、話者の視点と描写する視点が別になっているのだが、それは映画のように書いたからで、そこでいまさらながら気づいたのは、それは『ボヴァリー夫人』もそうなのだということだ。
長年、「フローベールが映画より先に映画を発明した」という言葉を読んだことを良く考えずに、うまい言い回しだなあ、と思って記憶の引き出しにしまっていたのだが、『ボヴァリー夫人』ではその冒頭で話者である「私たち」がいつの間にか小説の中から消えてなくなる、それはだからフローベールが映画のように書いたということなのだ、ということに気づいたのだった。


既に夏だとでもいうのか、それほどのこの蒸し暑さは、明日の天気予報が雨だということを、確かに予感させると、年寄りたちは言う。
と書き付けたこの文章は何だろう?おかしい。
午後から急な休暇を取り、こうして2階の部屋で、文章を書いている。
ほんとうは、やるべき書き物仕事をするべく取った休暇なのだが、咳がひどく様子を見て学校を休んでいる長男のことが気になり、なんとなく仕事が手に付かないままで、こうしてだらだらと駄文を書き連ねている。


この5月一杯で、友人の一人は、フランスから日本へ帰ってくるらしく、もう一人の友人は、日本から韓国へ仕事の都合で移り住むという。この二人は、どちらも錦糸町に住んでいて、近所同士なのだが、今回の二人の往来は、つくづく二人の関係を物語っている?