元旦礼拝の振り返り

昨日の元旦礼拝だが、初春の説教は、いつものようにとりとめの無いものだった。
マタイ13章44節をネタに我田引水系の説教。

天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。(新共同訳)


天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。 (口語訳)

チャプレンの説明では、「畑に埋まっている宝」の話は、「ユダヤの知恵の話」として、イエス以前から存在していたのであるが、イエスの言葉を通して、まったく意味が新しくなるということである。



新約聖書にはカネでモノを買うたとえが良く出てくるが、田川建三の影響からか、そういう話が出てくると、おいどんは決まって、「もっとも、そんなカネなんて、おれたち貧しいものは、持ってないけどね」というイエスの声が聞こえてくる。そういうイエスのイヤミなんて全て消し去って、捻じ曲げて、いかにしてユダヤ教という権威の力をかりながら、自分たちの宗教の正当性を確保していくか、というところが見え隠れするのだ。




それと、ミッションスクールに奉職して10年以上になるが、残念ながら、クリスチャンはカネに汚いね、そういうイメージが強くなったぜ。なにしろ宗教なんて元手が要らない商売なのだからして。特に牧師なんざ、「言葉」を商売にしているんだからね。苦しいことがあると、聖書の都合の良い箇所を引いて、「だから皆さん耐えましょう」と煙に巻くのだ。安全なところから一歩も出ようとしない奴らばかりだぞ。ふがふが。